2019/06/25

「行雲流水」

あまりにも濃すぎる関西だった。
学びも多かった。

やはり、源泉をきちんと見られるようになりたい。

愛は愛を呼ぶ。
悲は悲を呼ぶ。
依存はピッタリのペアを呼ぶ。
他然り。

それがいけないってことじゃない。
それが必要なタイミングもある。
そして誰しも死ぬまでプロセスだ。
完璧な人間もいない。

でも、自分の世界を純粋なエネルギーで満たしたいならば、
やはり純粋なエネルギーを源泉に動くことは必須だと思った。
純粋に喜びのエネルギーから。
あるいは純粋に怒りのエネルギーから。(怒り=NGじゃないからね!)

大丈夫じゃないのに大丈夫だと言う/思う。
ムカつくのになんてことないフリをする。
それはあとで不自然/不調和という名のツケが回ってくる。
まあ今回の人生じゃなくて来世かもしれないけど(笑)



話はそれるが、私はもう怒りまみれの人間だった。
だから、怒りの取り扱いについてはいろいろやってきた。
驚くことに、怒り=NGと思っている人も多い。
それは大概、怒りを他人に不当にぶつける/ぶつけられるなどの経験からだ。
でも、でも、感情にネガもポジもない。ただの質の違いだ。
だから、取り扱いさえ気を付ければ、それはただの純粋なエネルギー。



話戻す。

ここのところ、わかったと思ったらそれを試す実践の機会が何度もあり、如何に「知ってることの実践と定着」が難しいかを思い知っている。っていうか、実践と定着なんて一朝一夕ではできない、時間がかかって当然か。

そして、実践のなかでうまく循環しなかったなと思うその源泉を振り返ってみれば、そこにはやはり純粋さがなかったり、打算だったりしたのだ。

起きたできごと、心の大きな揺れ、からの、魂から見たこのできごとはなんだったのか??そしてこの体験から得る学びは??
ワクワクと肚の声の違いは?思考との違いは?
などなど、数時間のうちにガツッと得て、エネルギーが動きました。

このへん、私は「話す」ほうがエネルギーが ”乗る” ので、聴きたい方は声かけてください❤
(怒りの取り扱いについてもね!)



人間として体験していることのすべては“仮”だから、泣こうが笑おうが怒ろうが、大差ない。

で、どうせなら、スッキリと生きたい。
それは、怒らない、じゃなくて、
わかりやすく、言葉とエネルギーと思考と行動が一致していること。

そのためにやることは多くはない。
ただただぶれたら戻るだけ。
そのために観察できる自分をやしなうだけ。
そして、戻る場所がどこかを知る。

あー、やっとここまできたよ!長かった!
でもこれからだな~~~!



とあるお茶室にあった掛軸。

「行雲流水」

行書でぜんぜん読めないのに妙に気になったのでお聞きしたらこういう意味でした。

「空をゆく雲と川を流れる水のように、執着することなく物に応じ、事に従って行動すること。」

14番大腸経・大腿筋膜張筋が弱い私にはグッサリきます。

「諸行無常」
去年、父を亡くしたすぐあとでほんま先生との懇親会で調整してもらったテーマです。

私はいつになったら今を生きられるのだ(笑)

0 件のコメント:

コメントを投稿