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2021/01/23

まかふしぎあどべんちゃー!

ふと思いついてやったセルフセッションがなんだかオオゴトに。
 

自分が思ってるよりも他人の感情が頻繁に混ざってるのかな?と気づいたので、それに関するセッションを。

だいぶ変わった形になったので記録。

「感情に関するセッション」からスタート。プラスキーワードを。「プール」でヒット、そこから「公共」というキーワードにたどり着く。

公共?→YES
場所に問題あり?→NO
そこにいる人?→NO
どこの場所か特定する?→NO

などいろいろ確認した結果、「公共の場そのもの、がキーワード」と。
まず、ここに至るまでがなかなか手こずった~。

テーマは「感情 公共」、セッションの意図は自分と他人の感情を見分ける、というよりは、「自分とつながる」というところへ持っていったらいいっぽい。(と筋反で確認)

セッションが終わった今わかるのは、人の動きで空気が動くように気も動き、感情も動く、ビジョンで例えると絵の具が混じるような感じになっていて、公共の場にいくと混じっちゃってよくわかんなくなるような感じになっていたようです。

なーる。

ほんでまた、そのままサクッとは進めず、過去の情報を拾うと。過去生。しかも1つ、2つ、ピックアップしても進めない。もっとあるってことねー。でも、詳しい具体的なシーンまで拾う必要はないようで、個数のみ…28個。ナニコレ。でもいいの、わかんなくても。

調整も、体軸とか経絡、奇経、石を使ったりまあいろいろやったしなかなか終わらなくて、ちょっとスタートしたのを後悔しかけたけどもー 

無事に終わりまして、なんだか身体の重みをずっしり感じております。グラウンディング感すごー。でも、本来こういう重みがあるんだろうな、肉体って。

まかふしぎあどべんちゃー、done。

 

2019/08/31

施術に「身を委ねる」こと

今日、友人の施術を受けたのでした。

施術に身を委ねる。こりゃ思った以上に"深い"のだ。

信頼できる術者に身を委ねる。
それから、セッションによって出てくる身体感覚(やそれに伴う感情)に、分析やジャッジを行わずにそのままにする。こちらのほうが難しい。

とはいえ先日からそればかり。
自分の「今」が他から到底受け入れられないだろうそんなとき、それでも起きていることを信頼できるか、というポイント。起きていることや湧き上がってくるものに体(てい)のいい思考や知識で「こういうもんだから」とフタをする癖。

せっかく受けている施術の前半はフタをする連続だった。

ようやく、いやいやそうじゃあないだろう、と気づく。つい先日もチネイザンで身を委ねることの大切さに気付いたばかりじゃないか!
湧きおこる波に身を委ねて受け入れる。受け入れがたいことも。今やらなきゃいつやる、くらいの気概を持たないと受け入れられなかった。

そしたらねー。
深いところから湧き上がる思いとともに、涙がつーっと、ひとすじ、ふたすじ。

あ~辛かったんだ。苦しかったのね。

この感情を消化したかったのか。それから、こんなにも強く「思ってはいけない、願ってはいけない、感じてはいけない」と信じ込んでいた。そりゃあ、感じていることにフタもするわ。そして、あのとき起きたことを到底受け入れられなかったのだ。感情もできごとも直視できなかったし、でもどうにか納得したくて、そうして自分が納得いく道筋がほしかったのだな(だから思考や知識が瞬殺で湧き上がるものを消していた)。

わかったことがたくさんあった。フタを開けなければわからなかった。

そう、いつでも、現実に起きているできごとは単なるトリガーにすぎない。できごとに浅はかな思考でカタをつけたつもりになることなど、何の意味もなかった。また忘れていた。今日、ここにたどり着けてよかった。



自分が術者の立場のとき。いらん知識や解説をぶっこむことがあったと思う。マジ暴力。ふだんの会話があぶない。ちょっと気を許すとすぐやりそうになるし、今でもやってることある。あーイタイ。

相手がまずそれを聞きたいという意思があるのかどうか。
相手が聴いて理解できるタイミングなのか。

適切なタイミングで適切なことを伝えるのは難しい。やればやるほど、そう思う。
考えればいいってもんじゃないし、考えなしもまたマズイ。

こないだの心理ワークでも「言葉はかんたんに人を殺せる」とあらためて痛感したのだ。

人の心も記憶も全く理路整然とはしていない。至極ふんわりぼんやりとした曖昧なもの。だから、丁寧に、丁寧に。

2019/08/02

ADHD・HSP傾向。ADHD系さんに送る魔法の言葉。

私にはADHD傾向とHSP傾向がある。
診断・治療の経験からではないが明らかに当てはまりその傾向がある。

HSP。
感覚的感情的に敏感すぎて、たぶんある時期スイッチをOFFにして鈍感に生きていた、のがキネシオロジーをしながらこの7、8年でその感覚の鋭敏さに気づいた、思い出した、戻ってきている、よりよい使い方ができ始めている。

以前から、特に感情に鈍感な人の感情を肩代わりするかのように私が泣いたり怒ったりするのはよくあったことだけども、それが自分の敏感さからくるものということがようやくわかってきた。

そうだなあ、、、境界線と分離かな。境界線を意識することは本当にだいじ。あと、特に感情と一体化しやすかったり、特に私は一部にフォーカスして“全体”にしやすいので、その感情を自分そのものと思わないこと(悲しい、悲しい、とどっぷりと一体化しないで、感情を感じる+私は悲しいと感じている、というフレーズを持つ=俯瞰することが有効)と、あとは人の感情をもらってることがあるのでそのことを忘れない。全て自分の感情だと思ったりその感情とどっぷり一体化するといらぬ泥沼に自らハマることになる。
なんなら、「あーそう思ってるね」くらいの他人事的扱いがいいのかも。

ADHD傾向は、いやまあ参っていた、手を焼いていた。他の発達障害系もそうだけど、なぜみんなが出来ていることができない??というところにもなるので、よくよく自分を責めた。多動はあるかわからないが、不注意、衝動はある。

時間の認識や計画的行動が苦手。
アバウトな時間管理しかできなくて、オンタイムの待ち合わせや講座など時間が決まっていて出席するものが苦手。自分一人で完結する突発的衝動的な行動はよくやる。対人はええかっこしいが出るので考える(笑)
適当な料理はできるけど、レシピ通りの料理や、15分で3品!みたいなのも苦手。

で、こないだADHD系さんに良いなと思う魔法の言葉をもらってずいぶん気がラクになっている。それは「今そうなんだ」ってフレーズ。

よーし今日から〇〇するぞ、っていう継続が壊滅的にできない、続かない、飽きる、忘れる。

幸か不幸か?物の本質を捉えるのは得意なので、ちょっとやったら、あ、これはこういうことなんだな、っていうのがなんとなくわかる。すると、もういいかな、って思う。
ちょっと前まではtryもできなかったからその時はいろいろに興味が飛ぶ(注意散漫)自分、そしてtryできるようになってからも飽きる自分にほとほと嫌気がさしていた。

でもここで「今そうなんだ」ですよ!すると、今まで→「よし今日はこうしよう」→できない→自分を責める、的なループがあったのが「よし今日はこうしよう、と今はそう思っている(5分先のことはわからない)」というひっじょーーーに軽やかでなんの自責も起こさないパターンが出来つつある。

計画通りにできないことが問題なんじゃなくて、できない自分を責めることが一番の害悪。責めて何が解決するか?NO。(だから私は「〇〇反対」系の主張はあまり好きではない。)

そしてね。意識があっちゃこっちゃ散って一つのことが続かない代わりに、興味の対象は広かったり好奇心があったり、また、本質を掴めることも加味して「自分をととのえる」ための、キネシオロジー以外の手段もたくさん知ったしやってみた。それはもしかしてADHD傾向があったからこその宝なんじゃないのか、って急に思えて、なんかすごいホッとした。

ブログも、思いついたときに突発的にしか書けない。毎日コツコツ憧れる。でもムーリー。

これも「ムーリー」は一生無理なんじゃなくて「今はムーリー」なだけ。

だって、何十年も私には絶対できないと思っていた「毎日散歩」がここ5日続いている。なぜか夜中に1時間。このクッソ暑いのに。しかもひっじょーーーに爽快である。明日にはもうやんないかもしれないけどwwwそれでもいいの。半断食も、肉食も、ファストフード食も、引きこもりも、運動も、やりたいときにやれればいい。やりたいときにやれないのが一番悲しい。

で、何の話だっけ?これもADHD傾向かね(笑)

まあ、だからしょうがないでしょとか治らないからということでもなく、実際キネシをしてきてだいぶマシになっているし、やっぱり、持っているものは持っているものとしてその使いようだし改善する部分もあるから気楽にいこうぜってことかな。

週末の講座…時間…やっぱり緊張するなあ(笑)