今日、友人の施術を受けたのでした。
施術に身を委ねる。こりゃ思った以上に"深い"のだ。
信頼できる術者に身を委ねる。
それから、セッションによって出てくる身体感覚(やそれに伴う感情)に、分析やジャッジを行わずにそのままにする。こちらのほうが難しい。
とはいえ先日からそればかり。
自分の「今」が他から到底受け入れられないだろうそんなとき、それでも起きていることを信頼できるか、というポイント。起きていることや湧き上がってくるものに体(てい)のいい思考や知識で「こういうもんだから」とフタをする癖。
せっかく受けている施術の前半はフタをする連続だった。
ようやく、いやいやそうじゃあないだろう、と気づく。つい先日もチネイザンで身を委ねることの大切さに気付いたばかりじゃないか!
湧きおこる波に身を委ねて受け入れる。受け入れがたいことも。今やらなきゃいつやる、くらいの気概を持たないと受け入れられなかった。
そしたらねー。
深いところから湧き上がる思いとともに、涙がつーっと、ひとすじ、ふたすじ。
あ~辛かったんだ。苦しかったのね。
この感情を消化したかったのか。それから、こんなにも強く「思ってはいけない、願ってはいけない、感じてはいけない」と信じ込んでいた。そりゃあ、感じていることにフタもするわ。そして、あのとき起きたことを到底受け入れられなかったのだ。感情もできごとも直視できなかったし、でもどうにか納得したくて、そうして自分が納得いく道筋がほしかったのだな(だから思考や知識が瞬殺で湧き上がるものを消していた)。
わかったことがたくさんあった。フタを開けなければわからなかった。
そう、いつでも、現実に起きているできごとは単なるトリガーにすぎない。できごとに浅はかな思考でカタをつけたつもりになることなど、何の意味もなかった。また忘れていた。今日、ここにたどり着けてよかった。
*
自分が術者の立場のとき。いらん知識や解説をぶっこむことがあったと思う。マジ暴力。ふだんの会話があぶない。ちょっと気を許すとすぐやりそうになるし、今でもやってることある。あーイタイ。
相手がまずそれを聞きたいという意思があるのかどうか。
相手が聴いて理解できるタイミングなのか。
適切なタイミングで適切なことを伝えるのは難しい。やればやるほど、そう思う。
考えればいいってもんじゃないし、考えなしもまたマズイ。
こないだの心理ワークでも「言葉はかんたんに人を殺せる」とあらためて痛感したのだ。
人の心も記憶も全く理路整然とはしていない。至極ふんわりぼんやりとした曖昧なもの。だから、丁寧に、丁寧に。
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