去年から母と話す機会が増えている。
私は実家にいたとき家族とはほとんど会話がなかった。26,27のころに家を出たが、私がおとなと言われる年齢になってからも、親がどんな価値観や信念を持っているのか、一人の人間としてついぞ観察したことがなかった。それを去年からやっている。
観察ってちょっと言葉悪いかな?フラットに見るということね。
それを始めたとき、自分があまりにも親と同じ行動をとっていることにショックと笑えるが半々だった。うわ、私はこの親の子だ、私はこれをコピーしているのか、と思った。
もう少し時期が経って、今度はなぜそうしているのか行動の理由を聞くようになったとき、自分の予想とは全然違う動機があって驚きの連続だった。(その行動や動機が養育上好ましいことであったかどうかは別にして。)
なるほど。。。私の理解と母の本意はまったく別のところにあったのだ。
軽いところでいえば、いらないと言うのに何度も「いらない?」と聞く母。母は使わないものを捨てる罪悪感から私に聞いてくるので、私としてはその罪悪感に自分で折り合いつけてくれろよと言いたいところなんだけども、驚くことに、その会話を通じて一種コミュニケーションを楽しんでいるという意図もあったようなのだ。プラス母流の愛情表現だよね。なんてこった。(しかももちろん「寂しい」「話を聴いてほしい」などのコアな本音は出てこない。これもまた、ね(笑))
こういうのを知るたびに、自分と親とが同じ価値観を共有していたいわば共同体のようなものから、別個の価値観や行動原理を持った一人一人の人間である、という感覚に変わりつつある。
しかし、いらないものはいらないし、私はいらないものを何度も要るか?と聞かれるのはストレスだ。
さてどーする??
相手を変えることはできない。私が変わるしかない。
母は幸い(?)無理やり物を送ってくるということはしない。だから、ネックなのはほとんど会話。
こういうのはどうかな。
・母が私に何かしてくれようとする愛情(エネルギー)はイメージで受け取る。
・母の言葉をイメージのなかでもう少し遠くに置く。(今は、身体ギリギリかあるいは刺さってる(笑))
・母の罪悪感をひしひしとこちらも感じるが、それはイメージのなかで軽やかに後ろにスルー、流す。
・(これは今まで通り)いらない物は断る
境界線と距離感をつくるんだね。
…実験の結果や如何に(笑)
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