「自分のなかの安心とともに」言うは易く行うは難し。
これが、肉体にいることがイヤで逃げる癖があると、難しいのだ。
自分のなかの安心とともにいる、というのは、自分の意識の内・感情の奥にある平穏とともにいること、肉体とともにあること、だからだ。
肉体にいないとき、私がどうなっていたかというと一番顕著なのは現実がフラットに見られなくなる。思考、感情、行動などの感度が鈍り散漫になる。肉体にいないとか感情を感じたくない場合、思考に走る。もっとひどいと四六時中フル緊張とか。(そして鈍っていることや肉体にいないこともわかっていなかった。)
プラス、必要以上に周りと共鳴・同調し、境界線が引けず自分を失くして疲れる傾向にあった私は、つまるところ、いつも軸がなくぐらぐら揺れている状態だった。
*
プロセスとして、はじめは無条件に受け入れてくれる人と出会った。
会社を辞めるのは不安しかなかったが、辞めることでまず自分が心地よい人のみに付き合いを絞ることになったので今思えばよかった。この段階では、無意識に同じ匂いのする人たちとしか交流していなかった。心地悪いことがあったときには自然と縁が切れた。
初めは心地よかったが、だんだん世界が狭いと感じ始めた。
そうして同じ匂いのする人たちともう少し関係を深められるようになった。
一期一会なら適当にやり過ごせることも、長期に渡って関係を続けていこうと思ったら、自分のことや意思を伝えなければならないこともあり、これが私にはとても苦痛だった。業務連絡のほうがどんだけラクか(笑)
でも、伝えたとしてもNOジャッジで受け入れてくれる、ある時は伝えたことによりタイミングがすれ違うことも経験して、徐々に伝えることが大丈夫になってきた。
心地悪さもあるけれども、それでも正中線に戻ることができ始めている。
すると、違う匂いのする人たちが現れはじめた(RPGかw)。
その時の学びに必要な人たちが準備されているとしか思えない。おもしろい。
今まで全く関わったことがない業種、あるいは価値観を持った人は、自分の当たり前が通じない。同じ匂いの人となら簡単にすむやり取りが通じない。
こちらがフラットに物を伝えても責められたと受け取られたりジャッジされてビックリする。うわべだけの会話も多い。苦手なノリもある。
その場の空気に合わせてきた私を思い出し、そのモードに戻ってしまい、やはりはじめはしんどかった。
でも、これ以上ないいいチャンスなのだ。
相手の感情やテンション、場の空気と一線を引く。自分は自分でいる。自分のなかの安心とともにいる。そして相手に合わせる必要はないのだ。
境界線がなくどこまでもどんなことでも共感できる。
だからこそ、境界線のコントロールが必要。
*
ずっと、理想として、
未開発のジャングルのような、ありのままで違うものたちが混然一体となって美しい、そんな世界が私の人生でできたらいいなと思っていた。
そのためには私が私でいること。
そして「違う」ことや「NO」を受け入れること。
相手の言葉や状況に自分の感情や価値観のフィルターをのせていては始まらない。
ふふふ。楽しみである❤
0 件のコメント:
コメントを投稿